読書ノート:バッタを倒しにアフリカへ
バッタを倒しにアフリカへ 前野ウルド浩太郎著
2021年7月30日
この本の面白さはどこにあるのだろう。面白さは分解して読者に共感してもらえるものだろうか。と逡巡していては読書ノートが書けない。読書ノートは小学校以来の宿題である。幸い、限られてはいるが、私のフィールド経験と重なる部分を思い出しながら書いてみよう。
何よりこの本のベースは、フィールドでのサバイバルである。フィールドとグラウンドとは意味も語感も似ている。野球の内野手はinfielder、外野手outfielderという。フィールドからグラウンドへの連想から、鶴岡一人(つるおかかずと)という、かってのプロ野球の名監督を思い出した。彼の名言は「「グラウンドにはゼニが落ちている。人が二倍練習してたら三倍やれ。三倍してたら四倍やれ。ゼニが欲しけりゃ練習せえ」というものであった。何はともあれ狭い研究室を飛び出せば、フィールドには研究の金脈が見つかるかもしれない。飛び出さなければ金脈に出会うことはない。バットは振らなきゃ当たらない、である。そう考えるタイプの研究者にとって、フィールドというところはどうしても行くべきところなのである
本書はアフリカという、日本人の大部分にとってよく知られていないフィールドで、アフリカ人と一括りにする人々に助けられながらの生活記録でもある。未知の世界に向かう時には心躍るものがある。まして著者自身にとって未知のフィールドである。現地の人々の、思いやりと行動から受ける驚き、事前の資料では予想もつかない現地の状況、これらの体感が伝わってくる文章力がある。大いなる使命達成を夢見ながら、知恵を絞った小さな歩みの積み重ねの楽しみが伝わってくる。フィールドに出る前に資料を漁り、しっかり目を通すのは、旅に出るにあたって、ガイドブックを読む以上の意味がある。フィールドへ出かけるのはガイドブックに載っていない未知との遭遇を期待するからである。期待通りの未知なるものの発見もあれば、起きてほしくない未知との遭遇もある。起きてほしくない未知なるものは、人間社会をフィールドとする場合であっても必ず生じる。ましてや大自然の中のフィールドである。問題はそれがどういうものか、いつやってくるのかが分からないことである。多少の余裕を持たせたはずの資金繰り計画でも、帰国する日まで不安が付きまとう。「想定外やったぁ」とぼやきつつ、帳尻を合わさなくてはならない。
著者は自前の資金をつぎ込んでおり、研究機関から研究費付きで優遇された研究者ではない。なけなしの投資に見合う成果が欲しい、手ぶらでは帰ってこられない、という気持ちがある。とは言え著者は、バッタの大群との遭遇という、一発勝負への不安は、バッタに遭遇するという熱で霞んでいたと思う。それは著者が天性の楽天家であることを、タイトルと文章が表している。この点、著者に感心するのは、フィールドでの一発勝負に負け続けても、ささやかな研究の収穫をかき集めて、次の一発勝負を伺う姿勢である。転んでもただでは起きない。稼ぐ研究者とはこういうものであろう。
研究は試験計画書の作成から始まる。例えてみると、手に入る材料を想定したうえで、独創的で誰も作りえていない料理のレシピの創作の手順を想定するもの、と言えば分かってもらえるだろうか。研究目的が成就するかどうかは想定した材料が手に入るか、どうかが分かれ目である。著者にとってのそれはアフリカ大地のバッタの大群である。どうしてもバッタの大群に遭遇しなければならない。大自然のきまぐれに翻弄されることは覚悟の上である。研究とは本質的に無謀なチャレンジなのである。著者はバッタに翻弄されるも、落胆する間もなく、次の機会をうかがう間、いくつもの試験計画書を現地で作成しては本丸周辺の成果を稼いでいく。失礼な言い方だが、「小銭もたまれば山となる」の精神である。引き出しが多いとはこういうことか、いや多くの引き出しに小銭をため込もうという貪欲さである。本書がサバイバルの生活記録であるとした所以はここにある。
その一方でテント近くに蛇がはい回った砂跡を見て、現地の所長に「テントの近くに水を置くな」と諭されたあたり、その挿話もまた読者へのサービスであり、著者の愛嬌である。人に好かれることは、フィールドでは大いなる武器である。現地の人々に好かれれば、助けてもらえることも多いが、あざとい愛想は見抜かれる。ウルドという現地のミドルネーム(モーリタニアで最高の敬意を払われる、○○の子孫という意味)を授かったことは、著者にとってお金で買えるものではなく、研究成果とも引き換えにできない誇りであったろう。
昔は「末は博士か大臣か」と言われたこともあったが、近年は「博士号は足の裏に着いた米粒である。取らないと気持ちが悪いし、取っても食べられない」。と揶揄される。とはいえ若い人にとって学位の取得は将来を左右するのもまた事実である。さらに学位を活かすための研究とその成果は、未来を拓く原資であるが、それ以前に即日々の生活を食つなぎ、気力を奮い立たせる原動力でもある。希望と落胆が交互する中で、著者は自嘲とともに前を向き、ポスドクとして日々を生き延びるためにアフリカのフィールドと日本社会の挟間で知恵を絞る。
ポスドク(ポストドクターの略)とは博士の学位をとった後、不安定な就職口しかなく、研究にも日々の糧を得るにも苦労している状況を指す。この国は昔から博士号を持った人材をうまく活用することが不得手であった。それは欧米に比べて大学というものの歴史が浅く、また近代国家を担った産業界が義務教育終了者を大量に採用し、企業内教育で戦力化してきた伝統と無縁ではないように思う。50年前に私が学生であったころ、すでにポスドクという言葉があり、そのような状況が未だに続いている。日本の科学技術の基礎体力が頭打ちとなるのも宣なるかな、である。しかし著者は正面切ってそのような状況を批判せず、敢えてポスドクの実態をフィールドでの活動描写の中に埋め込んで、読者に知ってもらいたいと書き綴ったに違いない。
本書をエンターテイメントとして読んでも楽しいし、どのフィールドであれ、初めて出かける研究者の参考として読むのもいいと思う。本書の原点は、著者が若いころ多大な影響を受けたファーブル昆虫記にあるのは間違いない。ファーブル昆虫記を読んでみようかと思わせる読後感は、文章技術以上のなせるところであろう。万に一つ、この読書ノートで、バッタの本を読んでみたい、という人が現れるなら、文校の合評でおほめ頂く以上のことであろうが。
著者の壮大な夢は「バッタを倒す」というフレーズに凝集しているが、それがどのような成果を生むのか、著者ははっきりと記してはいない。研究室内での基礎研究と、フィールドという自然に日々向き合う世界が、どのように結びつくのかも、それは本の中で最期まで隠れている。それは著者が意図的に伏せておいたものであろう。
本書を読み終えてしばらくしてから、日経新聞に「前野浩太郎博士がバッタの発生を予測するモデルを開発した」という記事が載った(バッタの集団行動を予測 国際農研など 2021年5月9日)。現地の気温のデータを入力すると、バッタの大発生を予測できるというモデルである。なるほど、本書のストーリーはバッタの大群を求めて、何度も裏切られたことであった。研究室での基礎研究とフィールドの知見を融合させ、バッタ大発生予測モデルとして結実させた裏側には、バッタに喰われることを夢にまで見る著者の想いがあった。私にとって本書の面白さは、堅苦しく敬遠されがちな研究と研究者の生態に情熱とロマンが満ちたものであることを、自虐的な明るさで描いたところにある。
今日、研究と論文は不可分であるが、論文から情熱とロマンが排除されて、無味乾燥、規格化された文章の醜悪な塊となった。研究が実利と結びつき、ロマンと情熱を持てない研究者は少なくない。アマチュアリズムは下手な素人のやる拙いことと同列、同類と見下されている。アモールは死語となった。ファーブルの時代との隔絶を思う。本書はそれに対する一矢である。願わくはサバクトビバッタに苦しめられているアフリカ大地の人々に、前野博士のモデルが信頼される日が来ることを待ちたい。
ここで一つ懸念が残る。
昆虫は世界の飢餓を救う近未来のたんぱく源と目されている。サバクトビバッタが倒されて絶滅するとき、人類はさらなる飢えに苦しむ道をたどり、バッタが跋扈していた時代を回想するというシナリオが待ち構えているかもしれない。禍福は、いや科学もまた糾える縄のごとし。前野ウルド浩太郎博士の次作は、「人類と刺し違えたバッタ」というホラー小説になるのだろうか。